はじめに
背景
近年、就業規則を作成していない企業や、従業員が就業規則を受け取っていない事例が散見されます。その結果、退職手続きや労働条件について誤解や紛争が生じやすくなっています。本書は、そうした現場で起きる問題を分かりやすく整理します。
本調査の目的
本調査は、就業規則がない企業における退職の法的ルールや、企業と従業員の権利・義務を明確にすることを目的とします。労働基準法や民法の基本的な考え方をやさしく示し、具体的な事例を通して実務で使える知識を提供します。
対象読者
- 中小企業の経営者・人事担当者
- 退職を考えている従業員
- 労働問題に関心のある一般の方
専門用語は可能な限り避け、具体例で補足します。
本書の構成と読み方
全10章で構成し、退職手続きの基礎からトラブル対応まで順に解説します。まず本章で全体像をつかみ、必要な章を個別に参照すると実務に役立ちます。
就業規則がない企業の法的地位
法的義務
労働基準法第89条は、常時10人以上の従業員を使う事業主に就業規則の作成を義務づけます。作成した就業規則は労働基準監督署へ届け出し、従業員に周知する必要があります。
罰則
義務を果たさない場合、30万円以下の罰金が科される可能性があります。書面での整備や届出を怠ると行政上の問題に発展します。
10人未満の企業の立場
常時10人未満の企業には法的な作成義務はありません。ただし、書面がないことでルールの不明確さや運用のばらつきが生じ、労使トラブルが起きやすくなります。例えば、休暇や残業の扱いで誤解が生じやすくなります。
就業規則がない場合の実務的影響
就業規則がなくても、労働契約や慣行で雇用関係は成立します。賃金や労働時間、最低限の権利は労働法で守られますが、懲戒や退職手続きなど具体的対応で争いになりやすいです。
対応策(簡潔)
規模にかかわらず、基本的なルールを文書化しておくことをおすすめします。労働基準監督署や専門家に相談するとリスクを減らせます。
就業規則がない場合の退職手続きの法的ルール
概要
就業規則がない会社では、退職手続きは主に民法の規定に従います。労働基準法第89条3号は就業規則への退職規定の記載を求めますが、就業規則自体がなければその規定は適用されません。
法的根拠と成立時期
民法第627条1項により、正社員はいつでも退職の意思を表示できます。会社の同意が得られない場合でも、本人が退職の意思を伝えてから2週間経過すると退職は成立します。つまり、口頭でも書面でも意思表示があれば効力が生じます。
具体例
例えば4月1日に退職届を提出した場合、会社の承諾がなければ4月15日に退職が成立します。会社が承諾すれば、同意した日を退職日にできます。
実務上の注意点
- 退職は書面で出すと証拠になります(例:退職届やメール)。
- 有給休暇の消化や引継ぎは早めに相談しましょう。
- 最終給与の支払い時期や退職金の扱いは就業規則がないと個別契約や慣行で決まることがあります。
会社が同意しない場合の対応
会社が退職を認めず業務継続を求めても、正当な拘束力は基本的にありません。争いになったら労働相談窓口や弁護士に相談して適切な手続きをとりましょう。
雇用期間の定めがない場合の退職ルール
退職の基本ルール
雇用期間に定めがない(いわゆる正社員などの無期雇用)の場合、法律(民法第627条)では「退職の申出をした日から2週間後」に退職できると定められています。つまり、会社の就業規則に長い予告期間があっても、法的には2週間前の申出が優先します。
実務上の注意点
- 申出はできるだけ書面(メールや書類)で行うと証拠になります。口頭だけだとトラブルになることがあります。
- 例:6月1日に退職の意思を会社に伝えたら、6月15日が最終出勤日になります。
- 就業規則に1か月前の申告を求める記載があっても、法的にそれを理由に退職を阻止することは原則できません。ただ、円満に辞めたい場合は会社のルールに沿うか、引継ぎをきちんと行う配慮が必要です。
例外や特別な事情
- 会社側と合意すれば、退職日の前倒し・延長は可能です。双方の合意で決めると穏便に進みます。
- 労働条件の重大な違反(未払い賃金など)があれば、即時に辞める正当な理由になる場合があります。これを「雇い止め(重大な契約違反)」と呼ぶこともあります。
注意:無断退職やトラブル回避
無断で出勤しなくなると、信頼関係にヒビが入り、会社との交渉で不利になることがあります。まずは書面で意思表示し、引継ぎや最終給与・休暇精算の手続きを確認することをおすすめします。
雇用期間に定めがある場合の退職制限
概要
雇用契約に「1年」「3年」など期間が明記されていると、原則として契約期間満了まで退職できません。民法第628条は、やむを得ない事情がない限り期間途中の退職を認めないと定めます。
民法628条の意味(かんたんに)
この条文は、雇用契約を約束どおり続ける義務を保護します。契約期間内に一方的に辞めると、相手方に損害を与える可能性があるからです。短期の契約ほど、期間を守る期待が強くなります。
やむを得ない事情とは(具体例)
- 重い病気や長期の療養が必要になった場合
- 家族の急病や介護など避けられない事情
- 災害で通勤が不可能になった場合
これらは裁判例で早期退職を認められることがあります。個々の事情と証拠(診断書など)が重要です。
企業と労働者の対応
企業は代替の手配や業務調整を求めます。労働者はまず会社と話し合い、可能なら合意を書面で残してください。合意が得られない場合、損害賠償を請求される恐れがありますが、実務では実際の損害の証明が必要です。
進め方の実務的なポイント
- 早めに事情を伝える
- 医師の証明や証拠を揃える
- 交渉で退職日や引継ぎ方法を決める
- 紛争の場合は労働局や弁護士に相談する
就業規則がない企業側が直面するリスク
懲戒処分が事実上できない
判例は、懲戒処分を正当に行うには就業規則が必要だと示しています。具体例を挙げると、社員の横領や重大な勤務怠慢があっても、あらかじめ懲戒の種類や手続きを定めていなければ、企業は一方的に減給や停職を科しにくくなります。個別の雇用契約で処分を定めても裁判所で認められない場合があります。
定年制度が適用できない
就業規則に定年の規定がなければ、定年制のない雇用契約が成立するおそれがあります。たとえば「60歳で退職」との社内慣行だけでは退職を強制できません。人事計画や後任育成、年金との調整に支障が出ます。
労働紛争と損害賠償のリスク
ルールが不明確だと、労働時間や休暇、解雇理由を巡って争いが起きやすくなります。未払い残業や不当解雇の主張で裁判・調停になると、企業は長期の負担や賠償を負う可能性があります。具体例として、残業基準がないために生じる未払賃金請求があります。
行政対応や社会的信用の低下
就業規則が整備されていないと、労働基準監督署からの是正指導や命令が入る場合があります。また、採用や取引先からの信頼低下につながります。
早めの対応が重要
リスクを放置せず、就業規則を作成して周知することが最も有効です。労務の専門家や労働基準監督署に相談して、懲戒・定年・勤務時間・休暇などを明確に定め、従業員への配布と保管を行ってください。
退職金に関する問題
法律上の位置づけ
退職金は法律で支給が義務化されていません。支給の有無や算定方法は原則として就業規則や労働協約、個別契約で定めます。就業規則がなければ会社側に明確な支払いルールがありません。
就業規則がない場合の問題点
就業規則がないと、支給対象(正社員のみか契約社員も含むか)、算定基準(勤続年数や基本給の何か月分か)、支給タイミングが不明瞭になります。従業員が“自分の算出”を主張すると、会社はそれを裏付ける根拠がなく、合意がなければ支払いを拒むか過大に支払うリスクがあります。
具体例
- 勤続10年の従業員が「就業中の慣行で年1か月分」と主張するケース
- 退職時に支給があると誤解され、退職後に請求が来るケース
どちらも就業規則や明確な合意があれば回避できます。
会社と従業員が取るべき対応
会社はできるだけ早く支給基準を文書化して周知してください。文書がない過去の社員には遡及的な支払い義務は原則ない旨を丁寧に説明し、合意のない請求には記録を残して対応します。従業員は書面での説明を求め、口頭での慣行だけで判断しない方が安全です。
紛争になった場合の手続き
話し合いで解決しないときは、労働審判や裁判で判断されます。支給の根拠となる文書や当時の取扱いを示せるかが重要です。弁護士や労働相談窓口に早めに相談してください。
就業規則を受け取っていない場合の対応
就業規則を受け取っていないと不安になりますが、期間の定めのない雇用契約では退職の意思表示から2週間経過すれば契約を終了できます。以下は実務的な手順と注意点です。
1. 退職の意思表示は書面で残す
口頭だけでなく、メールや文書で退職の意思を伝えてください。例:
「本日付で退職の意思を表明します。退職希望日:○年○月○日(2週間以上先)」
書面があれば後のトラブルを防げます。
2. 就業規則は請求できる
就業規則は従業員が請求すれば閲覧・交付を受けられます。窓口での口頭請求でもよいですが、文書やメールで請求すると証拠になります。例文:
「就業規則の交付(または閲覧)をお願いします。受領方法:紙/電子」
3. 退職金・最終出勤日の確認
就業規則に退職金や清算方法が書かれている場合が多いです。規則を受け取れないときは、退職金の有無、計算方法、最終出勤日の取り扱いを文書で確認してください。過去の支給実績があれば証拠になります。
4. 会社が応じない場合の対応
会社が就業規則の提示や確認に応じない場合は、労働基準監督署や労働相談窓口に相談してください。必要なら弁護士に相談して対応を検討します。労基署は助言や指導を行えます。
5. 実務上の注意点
無断で出勤しない、または突然辞めると会社側との争いになります。退職の意思表示と就業規則請求は必ず記録を残してください。万一の争いに備え、メールや書面を保存しておきましょう。
「明日辞めます」が認められない理由
概要
就業規則を受け取っていないことを理由に「明日辞めます」と一方的に伝えても、原則として認められません。民法は、労働者が退職を望む場合に一定の予告期間(通常は2週間)を置くことを定めています。就業規則の受け取り有無はこの原則を覆しません。
なぜ認められないのか
退職の予告期間は、会社が人員補充や引き継ぎを行うための時間を確保する目的です。就業規則が手元にない場合でも、労働契約は存在し続けますので、予告のルールが適用されます。たとえば、翌日に出社しないと告げると、会社側は短期間で代替を探す負担が生じます。
例外となる場合
例外はあります。主なものは次の通りです。
– 未払賃金など会社側の重大な違反がある場合:直ちに退職を選べることがあります。例)数か月分の給料未払い
– 労働契約に別の合意がある場合:雇用契約書で即時解約が認められているとき
これらは個別事情によって判断されます。
実務上の注意点
口頭で「明日辞めます」とだけ伝えると、後で争いになります。書面で退職の意思を伝え、日付を明記してください。不当な扱いを受けた場合は、労働基準監督署や弁護士に相談すると安全です。
無断退職と損害賠償請求
定義と問題点
無断退職とは、会社に事前連絡や手続きをせずに勤務を辞めることや、長期間連絡なく欠勤することを指します。突然の不在は業務に支障を与え、職場の信頼を損ねます。過度に無責任な行為は義務違反となり得ます。
損害賠償が認められる条件
会社が損害賠償を求めるには、①従業員の行為により会社に損害が発生したこと、②その損害と行為に因果関係があること、③損害が合理的な範囲で計算できること、を示す必要があります。単なる迷惑では賠償に結びつきにくいです。
損害の例
欠員による残業増、代替者の採用費用、納期遅延による取引先への損失などが考えられます。裁判例では短期間で出勤しなくなった場合に一定の賠償が認められた例もありますが、金額は具体的事情で左右されます。
無断退職を避けるために
仕事を辞めたい場合はまず上司に意思を伝え、退職日や引継ぎ方法を相談してください。病気などで出勤できない場合は速やかに連絡と診断書を用意します。記録を残すと後の争いを防げます。
会社から請求を受けたら
請求内容の根拠や証拠を求め、支払い義務があるか冷静に確認してください。争いになれば弁護士や労働相談窓口に相談することをおすすめします。場合によっては示談で解決することも可能です。


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